橋本をつむぐ語り部 原照司さん

橋本をつむぐ語り部 原照司さん

橋本の超地元密着型読み物フリーマガジン『めぐり報』です。橋本の歴史を知る『橋本をつむぐ語り部』、今回は戦前、養蚕後が盛んであったころを知る、橋本在住の原照司さん(87)です。

子ども時代のこと

このあたりは「原」という姓が多く、父の昌訓(まさのり)という名を取ってウチは「まーくんの家」と呼ばれていました。また、養蚕業が盛んで桑の木がたくさん植わっていたことからこの辺りは「桑海地」と呼ばれていました。我が家も養蚕業を営んでおり、家の中にはお蚕部屋がありました。蚕は春・夏・晩秋の3回「あげ場」と呼ばれる近所の集積所に、繭の状態で出荷していました。

養蚕業を営んでいた自宅(原さんによる鉛筆画)

朝起きて登校前は、家中の拭き掃除をします。家から30分くらい歩いて旭小学校に着くと、門のすぐ近くにある奉安殿に拝礼してからそれぞれの教室に向かいました。学校から帰ると、草むしりをしたり、井戸水を汲み薪を焚いて五右衛門風呂を沸かしたり、夕食のうどんを作ったりしました。当時は家の手伝いが普通のことだったので、何の苦労も感じなかったです。

自宅にある井戸は今も現役

もちろん遊びもしました。鬼ごっこやかくれんぼをしたり、カナメモチの防風垣の枝を渡ってよその家まで行ったり…。ことのほか楽しみだったのは、天縛皇神社のお祭りと八王子のお十夜でした。夜店やお神楽、見世物やサーカスなどが出るので、娯楽のあまりない当時の私たちは、その日を待ち望んだものです。

だんごやき(どんど焼き)では梅の枝に団子を3つ刺して持っていき、「ヨトウムシの口焼きペッペッ!」と唱えて団子を焼きました。これは「農作物に害虫がつきませんように」という意味のおまじないです。

戦時中、戦後のこと

戦時中は学校へ行くことが出来なかったので、近所の「あげ場」に旭小の先生が来て午前中だけ勉強を教えてくれました。当時はあちこちに、そのような場所がありました。また父親が出征した家へ、農作業を手伝いに行くようなこともありました。

戦前、駐在所には鉄製の「火の見櫓」(ひのみやぐら)がありましたが、戦争になると金属供出により櫓は撤去され、その代わりに柿の木や電信柱に半鐘をかけて叩きました。半鐘は、まず1つ鳴らしたあと、2つ鳴らせば警戒警報、4つ鳴らすと空襲警報でした。空襲警報を鳴らしているときには、上空にはすでに米軍機が飛んでいたのを覚えています。近所の人たちは、半鐘が4つ鳴ると自分の畑にある防空壕に隠れました。

原 照司さん/昭和12年生まれ(87歳)/出身校:旭小学校 旭中学校 相原高校

戦後、小学校が再開しました。当時は給食など無く、家から弁当を持って行きました。弁当の中身は、家で育てたタケノコなどの季節の野菜や卵焼きなどでした。中には弁当を持ってこられない子もいて、自宅で作った酒まんじゅうを分けてあげたこともあります。

高校を卒業してから

相原高校を卒業後、就職をしましたが、その後は畑仕事の経験を活かし相原高校の教師として果樹と作物を教えました。また、今から2年くらい前までは宮上小学校に野菜作りを教えに行っていました。

若い頃から花好きで生け花をやっていて、横浜線の駅で生けたり、2020年の東京オリンピックの時には横浜の大桟橋に8畳ほどの大きさで生けたりしました。このような経験ができたのも、嫁入り前に生け花を習った当時の女性たちに混ざって、私も手習いをしたおかげかなと思います。植物が大好きなので、今は時々鉛筆で花の絵を描いています。

鉛筆で描いたオクラ

また、庭の木々に木の種類を書いた名札を下げたところ、家の前を通りかかる人達とコミュニケーションをとる良いきっかけとなっています。

庭のソテツに名札が下がる

人と関わることが好きなので、今まで連合会長、自治会長、宮上児童館長、ボーイスカウトなど様々な活動をしてきました。たくさんの人と関わり、つながることができて、大変幸せな人生だと思っています。

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