橋本の超地元密着型読み物フリーマガジン『めぐり報』です。橋本の歴史を知る『橋本をつむぐ語り部』、今回は自治会と御神輿についてを知る、橋本在住の柚木正義(ゆぎ まさよし)さんです。
柚木 正義(ゆぎ まさよし)さん
橋本在住/昭和19年生まれ
出身学校/旭小学校・旭中学校・相原高校
子ども時代のこと
私の家の本家(柚木榮司家)は「福島屋」といい、小さい頃は橋本宿の下宿で旅籠(はたご)〔宿泊・休憩場所〕をしていました。 当時、旧16号線沿いが上宿、中宿、下宿に分かれていて、吉田屋、中屋など数軒の旅籠があったものです。
旧16号線沿いは橋本宿と呼ばれていた
このあたりは柚木姓が多く、子どもの頃は「まさ坊」と呼ばれていました。私の父は、トマトやきゅうりなど西洋野菜の苗を育てて出荷する仕事をしていて、小さい時は、草取りや、夕方に保温のため、温床のビニールの上にムシロをかける手伝いをしました。父はその後、造園業も営むようになりました。
小学生の頃は、境川でハヤやウナギ、蟹を捕ったり、川で泳いだり、対岸の子ども達と石の投げ合いもしました。そんな訳で、敵対していた対岸へ行く時は1人では怖いので、必ずみんなで行きました。対岸の子達も、こちら側へはみんなで来ていました。
かつて境川では色々な魚が釣れた
子ども時代に特に楽しみだったのは、神明大神宮のお祭りです。普段は10円しかもらえないお小遣いも、お祭りの日は特別に50円もらって夜店でスマートボールや射的などをして楽しみました。また、山車を引いて町中を歩くと、あちこちの休憩所でお菓子やアイスキャンデーを貰えるのがとても嬉しかったのを覚えています。
小学生の頃、大山街道(旧16号線)でアメリカの進駐軍が幌付きのジープを30台くらい連ねて通ることがあり、近所の子ども達と手を振ったり声をかけたりして、チョコレートやガム、キャンデー等を投げてもらいました。ある時、道の用水路に石を投げて遊んでいたら、誤って進駐軍の車に当たってしまい、アメリカ兵が追いかけてきました。慌てて高尾屋さんに走って逃げ込みましたが、それはそれはとても怖かったです。
自治会と御神輿のこと
高校卒業後に会社員になり、単身赴任をした時もありましたが、若い頃から『地元の仲間とつながりたい』という思いがあったので、20代前半の頃ソフトボールチームに入りました。ソフトボールチームは当時12自治会にそれぞれ1チームずつあり、リーグ戦をして楽しんでいました。そういった縁もあり自治会の役員にもなりました。
当時、橋本神明大神宮のお祭りで担ぐ神輿は『暴れ神輿』と呼ばれていて、商店に突っ込んだり、酔っ払って道に放置して帰ってしまったりして担ぐことが禁止され、4~5年のあいだ格納庫にしまいっぱなしになっていました。
「神輿を担がないのはもったいない!」と試合が終わった交流会で話題となり、ソフトボールチームの仲間を中心に、しっかりとした組織を作ってルールや人数、渡御コースなどを細かく決めて神輿の渡御を再開しよう!との声が起きました。当時の自治会連合会の矢島 善行会長や役員、商店会の人たちと話し合い、各自治会からも神輿の代表を3~4人出すということで、ようやく神輿の渡御が再開されました。
皆で揃いの『橋本半纏』を着て神輿を担ぐことができた時は、心の底から誇らしく、嬉しかったものです。そして、今でも継承され、担ぎ手たちが大汗をかいて神輿を担ぐ様子を見ていると『再開できて本当によかったなぁ』としみじみ思います。
その後とこれから
会社を定年退職した後、父と同じく造園業を始めました。現在も農協の緑化センターで理事をやっていて、数年前、神明大神宮に植えた梅、桜、榊などの木々や、3代目の御神木になった北山杉の選定に協力をさせてもらいました。
6年前から神明大神宮の宮総代もしています。子供の頃から親しんだこのお宮や、大好きなお祭りを、皆さんと協力して次の世代に繋げていきたいと思っています。
橋本神明大神宮の御神木